写経に必要な用具です。
[筆]
兎毛やイタチ毛のような、比較的腰の強く、毛先の鋭い筆がよいでしょう。
形は、穂先が鋭く突き出しているもの、あるいは、錐状の面相筆がよいです。
筆をおろすときは、指先で穂先を丁寧にもみほぐし、糊気を水につけてをとり、その上で墨液を含ませて毛先をそろえながら形を整えます。
[紙]
写経には、罫の入った紙を使ってください。
紙質は、墨のにじまないものがよいです。
[墨]
小型でよろしいですので上質なものを選びましょう。
写経には、粘らず、のびがよく、光沢に冴えのある、漆黒色の墨がいちばん適しています。
国産の、油煙墨でよいでしょう。
硯の陸(おか)にほんの少量の水を入れ、力を入れずにゆっくり磨ります。
少し濃い目にすっておいた方がよいでしょう。
使用後は、十分に水気を取り、湿気、直射日光をさけて保存するようにしてください。
[硯(すずり)]
ほんの数滴の水で般若心経が一巻書けますので、あまり大きくない、小型で質のよいものを選んで下さい。
使用後は、必ず墨を洗い流しておきます。
2007年6月27日水曜日
写経の様式
写経には決まりごとがあります。
〔天地のあき〕
写経用紙には天地があり、せまい方を天(上)に広い方を地(下)にします。
罫粋があり天地の広さがちがうのです。
これは、経典を尊崇する意味で、古くから行われてきた様式に従っているのです。
〔内題(首題)〕
一巻を代表する経題ですから、省略せずに正式な名称で書きます。
<例>摩詞般若波羅蜜多心経(真言宗系では仏説が加わります)長文の場合も一行につめ、しかも文字が小さくならないように書き、下に余白を持つのが、正式な法式です。
〔本文〕
一行十七字づめが決まり。
十七字にこだわらないものも少なくありませんが、これは、唐代の初めに統一されたと言われています。
〔奥題(尾題)〕
省略した題名が、よく用いられます。
<例>般若心経
〔願文〕
祈りをこめて書く写経には、願文を巻尾に書きます。年・月・日、姓名、写経の場所、誰のため、という順序です。
修養や書道としての写経なら、願文を書かなくて構いません。
[空行〕
内題の前、本文と奥題の間、奥題と願文の間、巻末などに空行をとることは、古来からの様式で、美的効果の上でも必要なことです。
[誤字、脱字の処置〕
脱字を見つけたときは、そこに筆先で黒点をつけ、脱字を行末に書くのが決まりです。
二字脱字なら、二点をつけます。
誤字は、本来、はじめから書き直すところですが、誤字の右肩に黒点をつけ、その行の上またはそばに、正しい字を書けばよいということになっています。
〔天地のあき〕
写経用紙には天地があり、せまい方を天(上)に広い方を地(下)にします。
罫粋があり天地の広さがちがうのです。
これは、経典を尊崇する意味で、古くから行われてきた様式に従っているのです。
〔内題(首題)〕
一巻を代表する経題ですから、省略せずに正式な名称で書きます。
<例>摩詞般若波羅蜜多心経(真言宗系では仏説が加わります)長文の場合も一行につめ、しかも文字が小さくならないように書き、下に余白を持つのが、正式な法式です。
〔本文〕
一行十七字づめが決まり。
十七字にこだわらないものも少なくありませんが、これは、唐代の初めに統一されたと言われています。
〔奥題(尾題)〕
省略した題名が、よく用いられます。
<例>般若心経
〔願文〕
祈りをこめて書く写経には、願文を巻尾に書きます。年・月・日、姓名、写経の場所、誰のため、という順序です。
修養や書道としての写経なら、願文を書かなくて構いません。
[空行〕
内題の前、本文と奥題の間、奥題と願文の間、巻末などに空行をとることは、古来からの様式で、美的効果の上でも必要なことです。
[誤字、脱字の処置〕
脱字を見つけたときは、そこに筆先で黒点をつけ、脱字を行末に書くのが決まりです。
二字脱字なら、二点をつけます。
誤字は、本来、はじめから書き直すところですが、誤字の右肩に黒点をつけ、その行の上またはそばに、正しい字を書けばよいということになっています。
正式な写経の作法
正式な写経の作法をご紹介したいと思います。
1 手を洗い、口をすすいで身を清めます。
2 香をたき、室内も清めます。
3 墨をゆっくりすり、心を静めます。
4 合掌して礼拝します。
5 願文を読誦します。
真言は不思議なり、観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)を除く。
一字に千理を含み、即身(そくしん)に法如(ほうにょ)を証す。
行々(ぎょうぎょう)として円寂(えんじゃく)に至り、去々(ここ)として原初(げんしょ)に入る。
三界(さんがい)は客舎(かくしゃ)のごとし。一心はこれ本居(ほんこ)なり。
我、今至心(ししん)に懺悔し謹みて般若心経を写経し奉る。
仰ぎ願わくは、一字一文(いちじいちもん)法界に遍じ三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏に供養し奉らん。
6 浄写します。(無我の境地に入り、至心に写経します)
7 祈念します。(それぞれの願いごとを書き、念ずじます)
8 般若心経を読誦します(合掌)。(浄書したお経に目を通しながら唱えます)
9 般若菩薩真言 を三返。
オン ヂシリシュロタ ビジャエイソワカ
10 回向します。
11 合掌して礼拝します。
12 退座。
以上です。
1 手を洗い、口をすすいで身を清めます。
2 香をたき、室内も清めます。
3 墨をゆっくりすり、心を静めます。
4 合掌して礼拝します。
5 願文を読誦します。
真言は不思議なり、観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)を除く。
一字に千理を含み、即身(そくしん)に法如(ほうにょ)を証す。
行々(ぎょうぎょう)として円寂(えんじゃく)に至り、去々(ここ)として原初(げんしょ)に入る。
三界(さんがい)は客舎(かくしゃ)のごとし。一心はこれ本居(ほんこ)なり。
我、今至心(ししん)に懺悔し謹みて般若心経を写経し奉る。
仰ぎ願わくは、一字一文(いちじいちもん)法界に遍じ三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏に供養し奉らん。
6 浄写します。(無我の境地に入り、至心に写経します)
7 祈念します。(それぞれの願いごとを書き、念ずじます)
8 般若心経を読誦します(合掌)。(浄書したお経に目を通しながら唱えます)
9 般若菩薩真言 を三返。
オン ヂシリシュロタ ビジャエイソワカ
10 回向します。
11 合掌して礼拝します。
12 退座。
以上です。
2007年6月26日火曜日
写経の意義
写経は仏の教えを体得するための仏道修行そのものです。
ですから、写経生や僧侶は斎戒沐浴して身を清め、部屋を荘厳して写経に臨みました。
ですが、初めて写経に取り組むという時は、そうした厳しい決まりごとに従うよりも、とにかくまずは書いてみることが大切です。
平常心で筆を取り、習字を楽しむぐらいの気持ちのほうが長続きします。
とはいっても、仏様の金言であるお経を書き写すのですから、一字一字を仏様と思って心を込め、清らかな気持ちで取り組むことが大切です。
心静かに書き写していると、次第に気持ちが落ち着き、一巻書き上げた時には、何か目的を成就した様なすがすがしい気分になります。
ですから、写経生や僧侶は斎戒沐浴して身を清め、部屋を荘厳して写経に臨みました。
ですが、初めて写経に取り組むという時は、そうした厳しい決まりごとに従うよりも、とにかくまずは書いてみることが大切です。
平常心で筆を取り、習字を楽しむぐらいの気持ちのほうが長続きします。
とはいっても、仏様の金言であるお経を書き写すのですから、一字一字を仏様と思って心を込め、清らかな気持ちで取り組むことが大切です。
心静かに書き写していると、次第に気持ちが落ち着き、一巻書き上げた時には、何か目的を成就した様なすがすがしい気分になります。
2007年6月24日日曜日
2007年6月23日土曜日
写経の歴史 その1
写経とは、お経を書き写すことです。
写経の歴史は仏教そのものの歴史といえるぐらい、その歴史は古くからあります。。
釈迦が入滅した後、その教えを後世に伝えるため、高弟を中心に弟子たちは一同に集い、編纂を試みました。
こうして体系付けられたのが、お経なのです。
その後大乗仏教の発展とともに、さらに新しいお経が次々と生まれました。
インドでは、初め多羅椰子(たらやし)という木の葉にサンスクリット語などで書かれていました、それが中国に入って漢文に訳されたのです。
こうしてお経は仏教徒たちの手によって次々に書写されて広まり、八万四千もの膨大な経典は、このように写経によって日本にも伝えられたのです。
写経の歴史は仏教そのものの歴史といえるぐらい、その歴史は古くからあります。。
釈迦が入滅した後、その教えを後世に伝えるため、高弟を中心に弟子たちは一同に集い、編纂を試みました。
こうして体系付けられたのが、お経なのです。
その後大乗仏教の発展とともに、さらに新しいお経が次々と生まれました。
インドでは、初め多羅椰子(たらやし)という木の葉にサンスクリット語などで書かれていました、それが中国に入って漢文に訳されたのです。
こうしてお経は仏教徒たちの手によって次々に書写されて広まり、八万四千もの膨大な経典は、このように写経によって日本にも伝えられたのです。
2007年6月22日金曜日
般若心経と「心」と「経」
般若心経の「心」原語は「フリダヤ」といい、「心臓」とか「精髄」の意味になります。
私たちの心のゆらゆらと揺れ動くさまのことではありません。
したがって、「心」は般若経という一群の経典類の真髄、エッセンスという意味になります。
般若心経の「経」は、サンスクリット原典にはありません。
末尾の文句に「経」という語はついていません、もともとなかった末尾の文句を経題にしたわけです。
しかし、やはり中国人は最後に「経」がついていないとしっくりこないと考えていたのでしょう。
私たちの心のゆらゆらと揺れ動くさまのことではありません。
したがって、「心」は般若経という一群の経典類の真髄、エッセンスという意味になります。
般若心経の「経」は、サンスクリット原典にはありません。
末尾の文句に「経」という語はついていません、もともとなかった末尾の文句を経題にしたわけです。
しかし、やはり中国人は最後に「経」がついていないとしっくりこないと考えていたのでしょう。
2007年6月21日木曜日
「波羅蜜多」
般若波羅蜜多心経の「波羅蜜多」とは、サンスクリット語の音写語「パーラミター」です。
究極最高であること、究極性、究極最高の状態、完成態などと訳し、
「最高の」「究極の」という意味をあらわす形容詞パラマの派生形の名詞パーラミ(最高のもの)のあとにターという抽象名詞をつくる語尾を附したものです。
しかし、中国や日本の伝統的教理解釈では「到彼岸」(彼岸に到れる)と解し、彼岸(向こう岸)に度る(渡る)という意味で、単に「度」とも訳します。
これはサンスクリット語で、「彼方」とか、「他の」という意味のパラという語の派生形(パーラ)に目的格の語尾を加え(パーラム)、それに「行く」「達する」という意味の動詞の過去分詞形(イタ)を合わせてできた語形と解釈するものです。
究極最高であること、究極性、究極最高の状態、完成態などと訳し、
「最高の」「究極の」という意味をあらわす形容詞パラマの派生形の名詞パーラミ(最高のもの)のあとにターという抽象名詞をつくる語尾を附したものです。
しかし、中国や日本の伝統的教理解釈では「到彼岸」(彼岸に到れる)と解し、彼岸(向こう岸)に度る(渡る)という意味で、単に「度」とも訳します。
これはサンスクリット語で、「彼方」とか、「他の」という意味のパラという語の派生形(パーラ)に目的格の語尾を加え(パーラム)、それに「行く」「達する」という意味の動詞の過去分詞形(イタ)を合わせてできた語形と解釈するものです。
2007年6月19日火曜日
般若心経と「般若」
般若心経の「般若」というのは、サンスクリット語の「プラジュニャー」あるいは東南アジアに伝わった上座部仏教の聖典語であるパーリ語の「パンニャー」の音写語です。
「プラジュニャー」は、「プラ」と「ジュニャー」から成っており、プラはおそらく「最高の・勝れた」という意味の形容詞「パラ」から来た接頭語で、「前方に、甚だ、大いに、優れた」等を意味し、「ジュニャー」は「知る、察する、認識する」等と訳することができます。
ジュニャー」はまさしく「知識」のことですから、「プラジュニャー」つまり「般若」は「大いなる知識」「最高の知識」ということです。
一般には智慧といわれ、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られたさとりの智慧のことをいいます。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空(くう)と相応する智慧として強調されてきました。
般若を諸法の実相を体得した実践智として、常に悟りへつづく実践の根底に働くものとみる時、この般若の智慧こそ、仏教のさとりの本質である「自利利他二利円満」を完成するものとして、「仏母」とよばれるものです。
「プラジュニャー」は、「プラ」と「ジュニャー」から成っており、プラはおそらく「最高の・勝れた」という意味の形容詞「パラ」から来た接頭語で、「前方に、甚だ、大いに、優れた」等を意味し、「ジュニャー」は「知る、察する、認識する」等と訳することができます。
ジュニャー」はまさしく「知識」のことですから、「プラジュニャー」つまり「般若」は「大いなる知識」「最高の知識」ということです。
一般には智慧といわれ、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られたさとりの智慧のことをいいます。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空(くう)と相応する智慧として強調されてきました。
般若を諸法の実相を体得した実践智として、常に悟りへつづく実践の根底に働くものとみる時、この般若の智慧こそ、仏教のさとりの本質である「自利利他二利円満」を完成するものとして、「仏母」とよばれるものです。
般若心経の意味 意訳
般若心経の意味を以下に意訳しました。
仏とは彼岸の智慧を得た者をいう。彼岸の道に向かって深く行じていくと、因果の原因は本来無いものと心の眼で捉えられる。
そうなると、一切の苦しみと災難から超えることになる。
舎利子よ、一切は自分があるようで無い。
すべては一つなのだ。それゆえ、舎利子よ、この世のさまざまな因果の法則は、生じることもなければ滅することもない。
垢もたまらなければ浄(きよ)まることもない。
増えもしなければ減りもしない。
それゆえ、空(くう)の中に色(形、存在)があるというのではなく、二つは一つなのだ。
また差別、境界、肉体にまつわる様々な自我の思いは本当は無いものだ。
無いから、迷いも、迷いの尽きることも、老死も、苦悩もない。
いわんや小賢(こざか)しい知もない。
肉体にまつわる自我を去ると、このように見え、わかってくる。
菩薩行(ぎょう)の末に彼岸に着くと、神仏の智慧が与えられ、ものの真相が明らかになる。
般若の智慧を得ると、心に囚(とら)われがなくなり、恐怖の心も湧かなくなってくる。
物事を逆さまに見ていたことから遠く離れるので、行き着く先は神仏の世界しかないからである。
諸々の仏といわれる者は、一人も漏れなく大いなる神からいのちの果実を与えられ、大安心を得た。
ゆえに知ることだ。
彼岸への道は、これ大いなる神への祈りであり、一切の智慧の教えであり、これにくらべる道はない。
能(よ)く一切の苦を除いてくれる。
真実にして偽りのないものだ。
ゆえに、この説を指して不変の教えという。
教えを要約するとこうなる。
あなたも、わたしも、神仏を信じて一心をそれに託し、努め励んでゆくならば、安心の境涯に達することができる。
永遠に変わらぬ心の教え。
仏とは彼岸の智慧を得た者をいう。彼岸の道に向かって深く行じていくと、因果の原因は本来無いものと心の眼で捉えられる。
そうなると、一切の苦しみと災難から超えることになる。
舎利子よ、一切は自分があるようで無い。
すべては一つなのだ。それゆえ、舎利子よ、この世のさまざまな因果の法則は、生じることもなければ滅することもない。
垢もたまらなければ浄(きよ)まることもない。
増えもしなければ減りもしない。
それゆえ、空(くう)の中に色(形、存在)があるというのではなく、二つは一つなのだ。
また差別、境界、肉体にまつわる様々な自我の思いは本当は無いものだ。
無いから、迷いも、迷いの尽きることも、老死も、苦悩もない。
いわんや小賢(こざか)しい知もない。
肉体にまつわる自我を去ると、このように見え、わかってくる。
菩薩行(ぎょう)の末に彼岸に着くと、神仏の智慧が与えられ、ものの真相が明らかになる。
般若の智慧を得ると、心に囚(とら)われがなくなり、恐怖の心も湧かなくなってくる。
物事を逆さまに見ていたことから遠く離れるので、行き着く先は神仏の世界しかないからである。
諸々の仏といわれる者は、一人も漏れなく大いなる神からいのちの果実を与えられ、大安心を得た。
ゆえに知ることだ。
彼岸への道は、これ大いなる神への祈りであり、一切の智慧の教えであり、これにくらべる道はない。
能(よ)く一切の苦を除いてくれる。
真実にして偽りのないものだ。
ゆえに、この説を指して不変の教えという。
教えを要約するとこうなる。
あなたも、わたしも、神仏を信じて一心をそれに託し、努め励んでゆくならば、安心の境涯に達することができる。
永遠に変わらぬ心の教え。
2007年6月17日日曜日
般若心経の意味を直訳
般若心経の意味を直訳してみました。
智恵(ちえ)深き般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)を行(ぎょう)じられ、この世はすべて空(くう)なりと、照見(しょうけん)せられて一切の苦厄(くやく)を度(ど)されし観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)はここに説(と)き給(たま)う。舎利子(しゃりし)よ、色(しき)は空にして、空また色に異ならず、色は即ち空にして、空また即ち色ならむ。
受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)また同じ。
舎利子よ、諸法(しょほう)は空にして、生じなければ滅ぶなく、垢(あか)つかざれば浄(きよ)くなく、増えるなければ減るもなし。
空の中にはこの故に、色もなければ受も想も、行もなければ識もなし。
眼(め)もなく耳も鼻もなし、舌なし身なし心なし。色(いろ)、声、香り、味もなく、手触(てざわ)りもなく思いなし。
そこに働く識(しき)もなし。
煩悩(ぼんのう)もなく、煩悩の尽きることなく、老死なく、老死の尽きることもなく、十二支縁起(じゅうにしえんぎ)ありてなし。
苦、集(じゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四諦(したい)なく、知ることもなく得るもなし、すべて無所得(むしょとく)なる故(ゆえ)に。
菩薩(ぼさつ)は般若波羅蜜多に、依(よ)る故(ゆえ)、心に障(さわ)りなく、恐れるものもさらになし。
すべての狂い迷い去り、深き涅槃(ねはん)を得(え)給(たま)えり。
三世(さんぜ)にわたる御仏(みほとけ)も、般若波羅蜜多に依る故に、無上の悟りを得(え)給えり。
この故、般若波羅蜜多は、これ大(おお)いなる神呪(しんじゅ)なり、これ大いなる明呪(みょうじゅ)なり、これぞ無上の呪(じゅ)にありて、これぞ無比(むひ)なる呪とぞ知る。
よく一切(いっさい)の苦をのぞき、真実にして偽らず。
故に般若波羅蜜多の、呪をここにこそ説(と)き給う。即ち呪をば説きて曰(い)う。
彼(か)の岸へ、彼の岸へ行かむ、御仏(みほとけ)の智恵の悟りの岸に幸あれ。
智恵(ちえ)深き般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)を行(ぎょう)じられ、この世はすべて空(くう)なりと、照見(しょうけん)せられて一切の苦厄(くやく)を度(ど)されし観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)はここに説(と)き給(たま)う。舎利子(しゃりし)よ、色(しき)は空にして、空また色に異ならず、色は即ち空にして、空また即ち色ならむ。
受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)また同じ。
舎利子よ、諸法(しょほう)は空にして、生じなければ滅ぶなく、垢(あか)つかざれば浄(きよ)くなく、増えるなければ減るもなし。
空の中にはこの故に、色もなければ受も想も、行もなければ識もなし。
眼(め)もなく耳も鼻もなし、舌なし身なし心なし。色(いろ)、声、香り、味もなく、手触(てざわ)りもなく思いなし。
そこに働く識(しき)もなし。
煩悩(ぼんのう)もなく、煩悩の尽きることなく、老死なく、老死の尽きることもなく、十二支縁起(じゅうにしえんぎ)ありてなし。
苦、集(じゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四諦(したい)なく、知ることもなく得るもなし、すべて無所得(むしょとく)なる故(ゆえ)に。
菩薩(ぼさつ)は般若波羅蜜多に、依(よ)る故(ゆえ)、心に障(さわ)りなく、恐れるものもさらになし。
すべての狂い迷い去り、深き涅槃(ねはん)を得(え)給(たま)えり。
三世(さんぜ)にわたる御仏(みほとけ)も、般若波羅蜜多に依る故に、無上の悟りを得(え)給えり。
この故、般若波羅蜜多は、これ大(おお)いなる神呪(しんじゅ)なり、これ大いなる明呪(みょうじゅ)なり、これぞ無上の呪(じゅ)にありて、これぞ無比(むひ)なる呪とぞ知る。
よく一切(いっさい)の苦をのぞき、真実にして偽らず。
故に般若波羅蜜多の、呪をここにこそ説(と)き給う。即ち呪をば説きて曰(い)う。
彼(か)の岸へ、彼の岸へ行かむ、御仏(みほとけ)の智恵の悟りの岸に幸あれ。
2007年6月16日土曜日
般若心経 玄奘三蔵の漢訳経・読み方
「般若心経 」玄奘三蔵の漢訳経・読み方としては、以下の通りとなります。
ただし、宗派によっては、若干細かい言い回しが異なることもありますのでご注意ください。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時 (かんじーざいぼーさー、ぎょうじん、はんにゃーはーらーみーたーじ)
照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子 (しょうけんごーおんかいくう、どーいっさいくーやく、しゃーりーし)
色不異空、空不異色、色即是空(しきふーいーくう、くーふーいーしき、しきそくぜーくう)
空即是色、受想行識、亦復如是(くうそくぜーしき、じゅーそうぎょうしき、やくぶーにょーぜー)
舎利子、是諸法空相、不生不滅(しゃーりーしー、ぜーしょーほうくうそう、ふーしょうふーめつ)
不垢不浄、不増不減、是故空中(ふーくーふーじょう、ふーぞうふーげん、ぜーこーくうちゅう)
無色無受想行識(むーしきむーじゅそうぎょうしき、)
無眼耳鼻舌身意(むーげんにーび-ぜっしんにー)
無色声香味触法、(むーしきしょうこうみーそくほう)
無眼界乃至無意識界(むーげんかいないしーむーいーしきかい)
無無明、亦無無明尽、乃至無老死(むーむーみょう、やくむーむーみょうじん、ないしーむーろうし)
亦無老死尽、無苦集滅道、無知亦無得(やくむーろうしーじん、むーくーしゅうめつどう、むーちーやくむーとく)
以無所得故、菩提薩捶、(いーむーしょーとくこー、ぼーだいさったー)
依般若波羅蜜多故、心無罫礙(えーはんにゃーはーらーみーたーこー、しんむーけいげー)
無罫礙故、無有恐怖(むーけいげいこー、むーうーくーふー)
遠離一切顛倒夢想(おんりーいっさいてんどうむーそう)
究竟涅槃、三世諸仏、(くーぎょうねーはん、さんぜーしょーぶつ、)
依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
得阿耨多羅三藐三菩提、(とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい、)
故知般若波羅蜜多(こーちーはんにゃーはーらーみーたー)
是大神呪、是大明呪、是無上呪(ぜーだいじんしゅー、ぜーだいみょうしゅー、ぜーむーじょうしゅー)
是無等等呪、能除一切苦、真実不虚(ぜーむーとうどうしゅー、のーじょーいっさいくー、しんじつふーこー)
故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰(こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー、そくせつしゅーわつ)
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー)
菩提薩婆訶、般若心経(ぼーじーそわかー、はんにゃーしんぎょう)
ただし、宗派によっては、若干細かい言い回しが異なることもありますのでご注意ください。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時 (かんじーざいぼーさー、ぎょうじん、はんにゃーはーらーみーたーじ)
照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子 (しょうけんごーおんかいくう、どーいっさいくーやく、しゃーりーし)
色不異空、空不異色、色即是空(しきふーいーくう、くーふーいーしき、しきそくぜーくう)
空即是色、受想行識、亦復如是(くうそくぜーしき、じゅーそうぎょうしき、やくぶーにょーぜー)
舎利子、是諸法空相、不生不滅(しゃーりーしー、ぜーしょーほうくうそう、ふーしょうふーめつ)
不垢不浄、不増不減、是故空中(ふーくーふーじょう、ふーぞうふーげん、ぜーこーくうちゅう)
無色無受想行識(むーしきむーじゅそうぎょうしき、)
無眼耳鼻舌身意(むーげんにーび-ぜっしんにー)
無色声香味触法、(むーしきしょうこうみーそくほう)
無眼界乃至無意識界(むーげんかいないしーむーいーしきかい)
無無明、亦無無明尽、乃至無老死(むーむーみょう、やくむーむーみょうじん、ないしーむーろうし)
亦無老死尽、無苦集滅道、無知亦無得(やくむーろうしーじん、むーくーしゅうめつどう、むーちーやくむーとく)
以無所得故、菩提薩捶、(いーむーしょーとくこー、ぼーだいさったー)
依般若波羅蜜多故、心無罫礙(えーはんにゃーはーらーみーたーこー、しんむーけいげー)
無罫礙故、無有恐怖(むーけいげいこー、むーうーくーふー)
遠離一切顛倒夢想(おんりーいっさいてんどうむーそう)
究竟涅槃、三世諸仏、(くーぎょうねーはん、さんぜーしょーぶつ、)
依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
得阿耨多羅三藐三菩提、(とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい、)
故知般若波羅蜜多(こーちーはんにゃーはーらーみーたー)
是大神呪、是大明呪、是無上呪(ぜーだいじんしゅー、ぜーだいみょうしゅー、ぜーむーじょうしゅー)
是無等等呪、能除一切苦、真実不虚(ぜーむーとうどうしゅー、のーじょーいっさいくー、しんじつふーこー)
故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰(こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー、そくせつしゅーわつ)
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー)
菩提薩婆訶、般若心経(ぼーじーそわかー、はんにゃーしんぎょう)
2007年6月15日金曜日
般若心経と真言の思想
般若心経の「真言」の中の「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格になりますから、般若心経の主題であります女性名詞の「智慧」への呼びかけということです。
般若心経にも「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょうか?
当時のインドはヘレニズム文化圏の東端にあり、ギリシャ文化、ペルシャ文化の影響を受けてたのです。
ギリシャ彫刻の影響で仏像は生まれましたし、イランの神々の影響で大乗仏教で救いや光を性質にした様々な仏・菩薩が生まれたのです。
当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な智慧の女神(ソフィアなど)に対する信仰が流行っていましたので、般若心経にもその影響があったのかもしれません。
お経の智慧の本質を象徴するが「真言」という言葉です。
ですから、お経の智慧を理解していれば、「真言」を唱えることで、それを思い起こすことができるのです。
一般に「真言」は、その意味よりも言葉の響きが重要だとされますので、般若心経の「真言」も訳さないことが多く、また、その本来の意味も良く分らないのです。
般若心経にも「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょうか?
当時のインドはヘレニズム文化圏の東端にあり、ギリシャ文化、ペルシャ文化の影響を受けてたのです。
ギリシャ彫刻の影響で仏像は生まれましたし、イランの神々の影響で大乗仏教で救いや光を性質にした様々な仏・菩薩が生まれたのです。
当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な智慧の女神(ソフィアなど)に対する信仰が流行っていましたので、般若心経にもその影響があったのかもしれません。
お経の智慧の本質を象徴するが「真言」という言葉です。
ですから、お経の智慧を理解していれば、「真言」を唱えることで、それを思い起こすことができるのです。
一般に「真言」は、その意味よりも言葉の響きが重要だとされますので、般若心経の「真言」も訳さないことが多く、また、その本来の意味も良く分らないのです。
2007年6月14日木曜日
般若心経 玄奘三蔵の訳
般若心経の、玄奘三蔵の訳には「空」の思想を要約しているような、有名な「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という部分があります。
さらに、この部分の前に「色性是空 空性是色」と訳される部分がある版もあるのです。
ということは、原典では三段階の説明だったということなのです。
一般に「空」を三段階で説明する場合、私達が真実だと思っている現象の世界を、まず否定し、次にそれを相対的に認めることで何も存在しないとう極端な考え方を否定し、最後にそのどちらにも片寄らない立場に立ちます。
さらに、この部分の前に「色性是空 空性是色」と訳される部分がある版もあるのです。
ということは、原典では三段階の説明だったということなのです。
一般に「空」を三段階で説明する場合、私達が真実だと思っている現象の世界を、まず否定し、次にそれを相対的に認めることで何も存在しないとう極端な考え方を否定し、最後にそのどちらにも片寄らない立場に立ちます。
2007年6月13日水曜日
般若心経における空の思想
般若心経は、旧来の小乗仏教を批判する事で
、大乗仏教の「空」の思想を説いています。
これは小乗仏教を象徴する長老のシャーリプトラに、
大乗仏教を象徴するところの観自在菩薩が、説くという設定にも現われています。
小乗仏教の教説で中心となる概念を、般若心経が次々と数え上げながら、「空」である、
「無い」と否定しているのです。
「空」の哲学的な意味は、すべてのものには実体性が無いということです。
また、「空」の境地とは何事にもこだわりのない心ということです。
悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えているのです。
煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまいます。
こうしたこだわりをすべて捨てれば、おのずから彼岸=悟りへ到達できる、「空」の境地がひらける、ということなのです。
、大乗仏教の「空」の思想を説いています。
これは小乗仏教を象徴する長老のシャーリプトラに、
大乗仏教を象徴するところの観自在菩薩が、説くという設定にも現われています。
小乗仏教の教説で中心となる概念を、般若心経が次々と数え上げながら、「空」である、
「無い」と否定しているのです。
「空」の哲学的な意味は、すべてのものには実体性が無いということです。
また、「空」の境地とは何事にもこだわりのない心ということです。
悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えているのです。
煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまいます。
こうしたこだわりをすべて捨てれば、おのずから彼岸=悟りへ到達できる、「空」の境地がひらける、ということなのです。
2007年6月12日火曜日
日本における般若心経
般若心経は、法相宗・天台宗・真言宗・禅宗、など日本の仏教各派が使用しています。
浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗は『妙法蓮華経』を根本経典としているため、般若心経を唱えることはしていません。
しかし、これは当該宗派の教義上、用いる必要が無いという立場であり、心経を否定していることではありません。
・ 真言宗では、読誦・観誦の対象としている。日用経典の1つとしている。
・ 天台宗では、「根本法華」として重視している。
・ 浄土宗では、食事等の際に唱える。
・ 臨済宗では、日用経典の1つとしている。
・ 曹洞宗では、日用経典の1つとしている。
・ 修験道では、修験者(山伏などの行者)が「行」を行う際に唱える。
・ 神道でも唱えるところがある。
一般の人々にとっては、般若心経は「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められていて、一部には悪霊の力を空ずるという解釈もなされました
。
また、神社でも読誦されました。
江戸時代には、絵心経という、文字を読めない層のために、内容を絵に表した般若心経も製作されました。
また、現在では般若心経が写経の際によく筆写されています。
浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗は『妙法蓮華経』を根本経典としているため、般若心経を唱えることはしていません。
しかし、これは当該宗派の教義上、用いる必要が無いという立場であり、心経を否定していることではありません。
・ 真言宗では、読誦・観誦の対象としている。日用経典の1つとしている。
・ 天台宗では、「根本法華」として重視している。
・ 浄土宗では、食事等の際に唱える。
・ 臨済宗では、日用経典の1つとしている。
・ 曹洞宗では、日用経典の1つとしている。
・ 修験道では、修験者(山伏などの行者)が「行」を行う際に唱える。
・ 神道でも唱えるところがある。
一般の人々にとっては、般若心経は「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められていて、一部には悪霊の力を空ずるという解釈もなされました
。
また、神社でも読誦されました。
江戸時代には、絵心経という、文字を読めない層のために、内容を絵に表した般若心経も製作されました。
また、現在では般若心経が写経の際によく筆写されています。
2007年6月11日月曜日
般若心経のテキスト
般若心経 サンスクリットは、法隆寺の貝多羅葉(略して貝葉 ばいよう)経やネパールにはサンスクリット(梵字)写本があります。
般若心経の漢訳は、鳩摩羅什訳、玄奘訳とも、「般若波羅蜜(多)」「舍利弗(子)」「阿耨多羅三藐三菩提」「菩薩」及び最後の「咒(しゅ)」の部分だけは、サンスクリットをそのまま音写して漢訳しません。
サンスクリットのテキストの原題には経という語はありません。そのため、陀羅尼(総持)のために作られた唱文が、中国で経として扱われるようになったのではないかというがあります。
なお、経典目録(経録)としては最古である東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収録)には、摩訶般若波羅蜜神咒一巻』及び『般若波羅蜜神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文への信仰が先に成立していたのではないかという説があります。
また、『般若心経』では、雑密の陀羅尼を付加するために「般若波羅蜜多咒」という語句が追加されています。『摩訶般若波羅蜜』(大品般若経)では「摩訶般若波羅蜜」という語句・概念自体が大明呪(偉大な呪文)であると説かれています。
般若心経の漢訳は、鳩摩羅什訳、玄奘訳とも、「般若波羅蜜(多)」「舍利弗(子)」「阿耨多羅三藐三菩提」「菩薩」及び最後の「咒(しゅ)」の部分だけは、サンスクリットをそのまま音写して漢訳しません。
サンスクリットのテキストの原題には経という語はありません。そのため、陀羅尼(総持)のために作られた唱文が、中国で経として扱われるようになったのではないかというがあります。
なお、経典目録(経録)としては最古である東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収録)には、摩訶般若波羅蜜神咒一巻』及び『般若波羅蜜神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文への信仰が先に成立していたのではないかという説があります。
また、『般若心経』では、雑密の陀羅尼を付加するために「般若波羅蜜多咒」という語句が追加されています。『摩訶般若波羅蜜』(大品般若経)では「摩訶般若波羅蜜」という語句・概念自体が大明呪(偉大な呪文)であると説かれています。
2007年6月10日日曜日
般若心経 玄奘訳について
般若心経は、649年に、インドから帰国した玄奘も訳したとされています。
ちなみに、訳経史の概念としては鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言います。
しかし、般若心経はテキストの主要部分が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』からの抽出文そのものであり、玄奘が翻訳した『大般若経』の該当部分とは異なるため、明確に玄奘訳であるということではない。
現在、玄奘訳の最古とされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集字聖教序碑中の『聖教序』の後に付加されている般若心経テキストがあります。
しかし、太宗が聖教序を下賜した648年から大幅に時間が経過している上、跋文に脚色したという記載もあることから、この碑文は玄奘の没後にその偉業を讃えるために鳩摩羅什の訳文を元に玄奘訳としてまとめられたものではないかとする説もあります。
また読誦用として最も広く普及している玄奘訳とされる『般若心経』ですが、羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、元来前者が依用されていることを考慮するときわめて異例のことです。
ちなみに、訳経史の概念としては鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言います。
しかし、般若心経はテキストの主要部分が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』からの抽出文そのものであり、玄奘が翻訳した『大般若経』の該当部分とは異なるため、明確に玄奘訳であるということではない。
現在、玄奘訳の最古とされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集字聖教序碑中の『聖教序』の後に付加されている般若心経テキストがあります。
しかし、太宗が聖教序を下賜した648年から大幅に時間が経過している上、跋文に脚色したという記載もあることから、この碑文は玄奘の没後にその偉業を讃えるために鳩摩羅什の訳文を元に玄奘訳としてまとめられたものではないかとする説もあります。
また読誦用として最も広く普及している玄奘訳とされる『般若心経』ですが、羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、元来前者が依用されていることを考慮するときわめて異例のことです。
般若心経 玄奘訳について
般若心経は、649年に、インドから帰国した玄奘も訳したとされています。
ちなみに、訳経史の概念としては鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言います。
しかし、テキストの主要部分が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』からの抽出文そのものであり、玄奘が翻訳した『大般若経』の該当部分とは異なるため、明確に玄奘訳であるということではない。
現在、玄奘訳の最古とされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集字聖教序碑中の『聖教序』の後に付加されているテキストがあります。
しかし、太宗が聖教序を下賜した648年から大幅に時間が経過している上、跋文に脚色したという記載もあることから、この碑文は玄奘の没後にその偉業を讃えるために鳩摩羅什の訳文を元に玄奘訳としてまとめられたものではないかとする説もあります。
また読誦用として最も広く普及している玄奘訳とされる『般若心経』ですが、羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、元来前者が依用されていることを考慮するときわめて異例のことです。
ちなみに、訳経史の概念としては鳩摩羅什までの漢訳経典を「古訳」、鳩摩羅什以降、玄奘までを「旧訳(くやく)」、玄奘以降を「新訳」と言います。
しかし、テキストの主要部分が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』からの抽出文そのものであり、玄奘が翻訳した『大般若経』の該当部分とは異なるため、明確に玄奘訳であるということではない。
現在、玄奘訳の最古とされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集字聖教序碑中の『聖教序』の後に付加されているテキストがあります。
しかし、太宗が聖教序を下賜した648年から大幅に時間が経過している上、跋文に脚色したという記載もあることから、この碑文は玄奘の没後にその偉業を讃えるために鳩摩羅什の訳文を元に玄奘訳としてまとめられたものではないかとする説もあります。
また読誦用として最も広く普及している玄奘訳とされる『般若心経』ですが、羅什訳と玄奘訳との双方がある経典は、元来前者が依用されていることを考慮するときわめて異例のことです。
2007年6月9日土曜日
大智度論 般若心経
大智度論(だいちどろん)の作者は、龍樹とされてます。
百巻に及ぶ摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)の注釈書で、初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっていますので、仏教百科事典的に扱われることが多いようです。
大智度論(だいちどろん)は、一般には、基本的な部分は龍樹の著作で、その解説のために、訳者である鳩摩羅什が大幅な付加を加えたという説が一般的です。
しかし、漢訳は逐語的な注釈が続いていくが、大品般若経の序品第一の解釈が三十四巻まで続き、それ以降は唐突に抄訳になってしまうことなどから、鳩摩羅什が増広上書きしたとか、あるいは龍樹に仮託して撰述したという極端な説まで出されて、著作者が誰であるかということについては、フランスのラモット博士と日本の干潟博士の論争もありますが、収拾はついていません。
いずれにしても大乗仏教の精髄を中国に伝えようと意図した鳩摩羅什の手が入っていることは間違いないでしょう。
百巻に及ぶ摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)の注釈書で、初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっていますので、仏教百科事典的に扱われることが多いようです。
大智度論(だいちどろん)は、一般には、基本的な部分は龍樹の著作で、その解説のために、訳者である鳩摩羅什が大幅な付加を加えたという説が一般的です。
しかし、漢訳は逐語的な注釈が続いていくが、大品般若経の序品第一の解釈が三十四巻まで続き、それ以降は唐突に抄訳になってしまうことなどから、鳩摩羅什が増広上書きしたとか、あるいは龍樹に仮託して撰述したという極端な説まで出されて、著作者が誰であるかということについては、フランスのラモット博士と日本の干潟博士の論争もありますが、収拾はついていません。
いずれにしても大乗仏教の精髄を中国に伝えようと意図した鳩摩羅什の手が入っていることは間違いないでしょう。
2007年6月7日木曜日
サンスクリット語
サンスクリット語は古代・中世に、インド大陸において公用語として用いられていた言語で、
古典言語であるため現在日常語としての話者はほとんどいません。
現在のインドの公用語の一つでもあります。
日本では、一般には言語であることを明示してサンスクリット語と呼ばれてる。
また、古くは梵語とも呼ばれていました。
サンスクリットは、狭義には紀元前5世紀~紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されるます。
同じアーリア語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似しています。
釈迦の時代など日常の生活においてインド各地の地方口語(パーリ語など)が一般に用いられるようになってからも、逆に公用語としてサンスクリットは普及し、宗教・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に渡って用いられました。
サンスクリットはプラークリットと共に近代インド大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語です。
この二つの古典語はヒンドゥスターニー語などの北インドの現代語の祖語であるばかりでなく、ドラビダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えました。
さらには東南アジアの多くの言語や、東アジアの言語にも影響を与えています。
13世紀以降のイスラム王朝支配の時代から、大英帝国支配による英語の時代を経てその地位は相当に低下しましたが、実は今でも知識階級においてサンスクリット語を習得する人も多く、学問や宗教の場で現代まで生き続けています。
古典言語であるため現在日常語としての話者はほとんどいません。
現在のインドの公用語の一つでもあります。
日本では、一般には言語であることを明示してサンスクリット語と呼ばれてる。
また、古くは梵語とも呼ばれていました。
サンスクリットは、狭義には紀元前5世紀~紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されるます。
同じアーリア語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似しています。
釈迦の時代など日常の生活においてインド各地の地方口語(パーリ語など)が一般に用いられるようになってからも、逆に公用語としてサンスクリットは普及し、宗教・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に渡って用いられました。
サンスクリットはプラークリットと共に近代インド大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語です。
この二つの古典語はヒンドゥスターニー語などの北インドの現代語の祖語であるばかりでなく、ドラビダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えました。
さらには東南アジアの多くの言語や、東アジアの言語にも影響を与えています。
13世紀以降のイスラム王朝支配の時代から、大英帝国支配による英語の時代を経てその地位は相当に低下しましたが、実は今でも知識階級においてサンスクリット語を習得する人も多く、学問や宗教の場で現代まで生き続けています。
2007年6月6日水曜日
般若心経 「心」
般若心経の「心」とは、呪(陀羅尼、真言)をも意味する語です。
また、サンスクリット語で心臓=重要な物を意味する「hrdaya」(フリダヤ)の訳語です。
そのため、般若心経は空観を説く経典であるとされている一方で、真言の経典であるともいわれています。
しかし、一般に、後期の密教化したものは別として、般若経典には、呪文などは含まれていません。
そこから考慮すると、この般若心経は般若経典としては極めて特異なものと言えます。
そして、最古の経典目録である梁の僧祐撰『出三蔵記集』には、「摩訶般若波羅蜜神呪一巻」「般若波羅蜜神呪一巻 異本」とあり、経としての般若心経成立以前から、先に呪文への信仰が成立していたという説もあります。
般若経典群のテーマを「空」の1字に集約して、悟りの成就をたたえる体裁をとりながらその重要性を説いて、一方、末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されています。
『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)では大明品第三十二に「摩訶般若波羅蜜」という語句・概念自体が大明呪(偉大な呪文)であると説かれています。
また、サンスクリット語で心臓=重要な物を意味する「hrdaya」(フリダヤ)の訳語です。
そのため、般若心経は空観を説く経典であるとされている一方で、真言の経典であるともいわれています。
しかし、一般に、後期の密教化したものは別として、般若経典には、呪文などは含まれていません。
そこから考慮すると、この般若心経は般若経典としては極めて特異なものと言えます。
そして、最古の経典目録である梁の僧祐撰『出三蔵記集』には、「摩訶般若波羅蜜神呪一巻」「般若波羅蜜神呪一巻 異本」とあり、経としての般若心経成立以前から、先に呪文への信仰が成立していたという説もあります。
般若経典群のテーマを「空」の1字に集約して、悟りの成就をたたえる体裁をとりながらその重要性を説いて、一方、末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されています。
『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)では大明品第三十二に「摩訶般若波羅蜜」という語句・概念自体が大明呪(偉大な呪文)であると説かれています。
2007年6月5日火曜日
摩訶般若波羅蜜経
摩訶般若波羅蜜経は、鳩摩羅什によって漢訳された般若経典のひとつで『二万五千頌般若経』のことです。
90品(高麗大藏再雕本は27巻、思溪資福藏、普寧藏等は30巻)の比較的規模の大きな経であり、通常は大品般若経(大品)と呼ばれています。
鳩摩羅什の訳した経の中には、「摩訶般若波羅蜜経」と名づけられるものがもう一つありますが、そちらは『八千頌般若経』の漢訳で、大品に対し小品般若経(小品)と呼ばれていいます。
般若経典は初期大乗から中期大乗にわたって、大きいものは『十万頌般若経』、小さいものは『金剛般若経』『八千頌般若経』、まで多数つくられましたが、2~3世紀頃の中庸の時期に繁簡よろしきを得てまとめられたのが『二万五千頌般若経』です。
大蔵経に収録されている漢訳は、竺法護訳『光讃経』(286)、無叉羅訳『放光般若波羅蜜経』(291、)鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』、そして玄奘訳『大般若波羅蜜多経第二会』(660-663)の4本です。
90品(高麗大藏再雕本は27巻、思溪資福藏、普寧藏等は30巻)の比較的規模の大きな経であり、通常は大品般若経(大品)と呼ばれています。
鳩摩羅什の訳した経の中には、「摩訶般若波羅蜜経」と名づけられるものがもう一つありますが、そちらは『八千頌般若経』の漢訳で、大品に対し小品般若経(小品)と呼ばれていいます。
般若経典は初期大乗から中期大乗にわたって、大きいものは『十万頌般若経』、小さいものは『金剛般若経』『八千頌般若経』、まで多数つくられましたが、2~3世紀頃の中庸の時期に繁簡よろしきを得てまとめられたのが『二万五千頌般若経』です。
大蔵経に収録されている漢訳は、竺法護訳『光讃経』(286)、無叉羅訳『放光般若波羅蜜経』(291、)鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』、そして玄奘訳『大般若波羅蜜多経第二会』(660-663)の4本です。
2007年6月4日月曜日
大乗仏教
大乗仏教(だいじょうぶっきょう)とは、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて伝統的に信仰されてきた仏教分派のひとつです。
大乗仏教では、我身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心(⇒菩提心)を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と上座部仏教(=部派仏教)とを区別する指標としています。
大乗仏教の大乗という言葉は、般若経で初めて見られ、一般に大乗仏教運動は般若経を編纂護持する教団が中心となって振興したものと考えられています。
大乗仏教の教えは、思想的には、釈迦如来入滅の約700年後に理論付けられたとされています。
チベットでは、8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進していきました。
同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後のチベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアあたりにまで拡大されていきました。
大乗仏教では、我身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心(⇒菩提心)を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と上座部仏教(=部派仏教)とを区別する指標としています。
大乗仏教の大乗という言葉は、般若経で初めて見られ、一般に大乗仏教運動は般若経を編纂護持する教団が中心となって振興したものと考えられています。
大乗仏教の教えは、思想的には、釈迦如来入滅の約700年後に理論付けられたとされています。
チベットでは、8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進していきました。
同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後のチベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアあたりにまで拡大されていきました。
2007年6月3日日曜日
般若心経ってなに?
般若心経(はんにゃしんぎょう)は、大乗仏教思想の空・般若思想を説いた経典のなかのひとつです。
宗派によって、般若心経は、様々な呼び方されており、この他には仏説摩訶般若波羅蜜多心経、摩訶般若波羅蜜多心経、般若波羅蜜多心経と言います。
略して心経とも言います。
わずか300字足らずの本文のなかに大乗仏教の心髄が説かれているとされ、一部の宗派を除いて僧侶・在家を問わず、読誦経典の1つとして、古くから依用されています。
一般には600巻に及ぶ「大般若経」のエッセンスとされる等といわれている般若心経ですが、実際には大部からなる『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)の抜書きに『陀羅尼集経』に収録される陀羅尼を末尾に付け加えたものです。
「空」の1字に集約することで般若経典群の中心思想を説き、その重要性を説いて悟りの成就を讃える体裁をとっていますが、末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されています。
宗派によって、般若心経は、様々な呼び方されており、この他には仏説摩訶般若波羅蜜多心経、摩訶般若波羅蜜多心経、般若波羅蜜多心経と言います。
略して心経とも言います。
わずか300字足らずの本文のなかに大乗仏教の心髄が説かれているとされ、一部の宗派を除いて僧侶・在家を問わず、読誦経典の1つとして、古くから依用されています。
一般には600巻に及ぶ「大般若経」のエッセンスとされる等といわれている般若心経ですが、実際には大部からなる『摩訶般若波羅蜜経』(『大品般若経』)の抜書きに『陀羅尼集経』に収録される陀羅尼を末尾に付け加えたものです。
「空」の1字に集約することで般若経典群の中心思想を説き、その重要性を説いて悟りの成就を讃える体裁をとっていますが、末尾に付加した陀羅尼によって仏教の持つ呪術的な側面が特に強調されています。
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